日本思想史学会(岡山大学)大会 柳田民俗学批判 ― 歴史の欠落をめぐって ― 報告要旨 2010年10月17日 古田武彦

日本思想史学会(岡山大学)大会
      柳田民俗学批判 ― 歴史の欠落をめぐって ― 
          報告要旨         2010年10月17日 古田武彦

(1)
 柳田民俗学は、明治41〜4年(1908〜1911)の頃を出発点としている。大逆事件と
 それにつづく南北朝(正閏)問題の嵐の只中に当る。(『柳田国男の皇室観』山下紘一郎 梟(ふくろう)社刊)

(2)
 柳田の義父は大審院の判事であり、彼自身も宮内書記官として、事件をめぐる中枢官僚の
 一端にいた。そのため、逆にいわゆる『歴史』(皇国史観)に相(あい)反する、或は反し得(う)る『各地
 独自の歴史伝承』は、ほとんどこれをカットせざるをえなかった。それ故、彼の民俗的採集
 の一つ、ひとつは「歴史を失った、バラバラの粒子(りゅうし)」と化する運命となった。

(3)
 (イ)たとえば『東日流(つがる)[内・外]三郡誌』によれば、シベリアの黒竜江沿岸から日本列島に最初に来た
 部族は「アソベ(阿曽部)族」だという。(「ア」と「ベ」は、接頭語と接尾語。) (ロ)「ツボケ(壷
 化)族」(三内丸山・縄文中期)の前段階(縄文前期以前)である。 (ハ)「アソ(阿蘇)山」
 「キソ(木曽)川」の「ソ」も「神」をしめす最古の用語である。 (ニ)柳田が種々採集した
 海岸の「イソ(磯)」も、「アソ」と同類語である。しかし、「歴史的位置づけ」はない。
 関連資料に対して「ノータッチ」だったためである。

(4)
 他にも、「アマテル(天麻て留)神社」(対馬)の伝承、「オオクニヌシ(大国主)」の現地伝承、「
 コトシロヌシ(事代主)の祭儀(さいぎ)」(美穂神社・島根県)等、重要な現地儀礼や現地伝承
 が、柳田民俗学には一切「カット」されている。記紀(神代巻)との矛盾(むじゅん)のためであろう。
 (「コトシロヌシ」は、天照大神側の軍に敗れ、自殺(海底への投身)を代償として、民衆を救った
 人物とされている。(春秋二回、祭礼)。(古田『古代史を疑う』参照。復刊本は来年の予定。)

(5)
 信州(長野県)でも、現地(穂高、松本)では、極めて著名の歴史伝承(八面(はちめん)大王と田村(たむら)将
 軍)がカットされている。(「八面=八女(やめ)」ならば九州王朝の末期。701前後。)
 いずれにせよ、重要な伝承である。(「坂上田村麻呂」と“誤認”等置(とうち)。)(東京古田会
 会報 No.102 May 2005 に「八面大王論」第一回。) (柳田国男「田村将軍が自分
 の村には来て居らなかったといふやうなことが不名誉(ふめいよ)であってはならぬのであります。」「郡誌調
 査員会に於て」大正7年7月、信濃教育381号。定本柳田国男集第二十五巻P552
 昭60新装版五五二ページ) 穂高・松本周辺には、八面大王にまつわる地名伝承豊富。

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(6)
 柳田の民俗学の出発点ともいうべき『遠野物語』で「おしらさま」伝承が頻出している。
 しかし、その「本来の歴史」が「カット」されている。
 @「おしらさま」の典型的なスタイルは「馬(夫)と人間(妻)」のセットであるが、一方「馬の流入」
 期は東北地方では「室町時代」とされている。(中国・朝鮮半島からの流入。) Aけれども、関
 東以西にはこの「祭り」は存在しない。冷静に観察すれば、東北地方のみ「馬」が神格化され
 るのは、不自然という他はない。(「暮らしの中の信仰展」青森県郷土館展示。平成6年

           

           

 12月10日〜1月14日) この「?」が当問題の基点(きてん)である(「馬頭観音」は別系。)

 Bだが、『東日流外三郡誌』には、次の注目すべき長文の記載がある。(資料参照)
 (イ)「ツボケ(壷化)族」は、はじめシベリア(黒竜江沿岸)から東進し、アラスカ半島を通ってアメ
   リカ大陸を南下し、のち逆転して北上、再びアラスカ半島の南辺より、潮流(親潮)
   に乗じ、下北半島(青森県)に到着した。その大筏には小型の馬が人間と共
   に乗せられていた、という。この点、わたしは国立の気象庁(東京)で、この「到着点」
   (下北半島)及び「日数」(3ヶ月弱)が真実(リアル)であることを確認した。(のち
   に、合田洋一氏が同庁で、別の調査官に会い、わたしの場合とほぼ同様の回答をえら
   れた。《資料『なかった ― 真実の歴史学』第四号参照》)(No.4)
 (ロ)ただ従来の「通説」では、北アメリカに存在した「小型の馬」は、旧石器時代であり、日本の
   「縄文時代」に当る時期には、絶滅(ぜつめつ)したとされていた。一方、右の「大筏伝承」は、後述
   のように「縄文前半期」と見なされる。「三内丸山」(ツボケ族)(縄文中期)以前であり
   先述の「アソベ族」以後に属するからである。両者、時間帯が「矛盾」していた
 (ハ)しかし、わたしがワシントンD・Cのスミソニアン博物館を訪れたとき、「新たに発見された
   小型の馬(の骨)」が到着して、直ちに展示中であった。その時期は、従来の「通説」
   に反し、日本の「縄文時代」に当る、新しい地層からの出土であった。(考古学者のメガーズ
   夫人の先導による。) これによって、「(日本の)縄文時代前半期に、北米には、“小型
   の馬”が生存していた」事実が確認されたのである。(2003、2月)
 (ニ)その「小型の馬」は、死んだあと、「馬神山」(五所川原、北方)に葬られ、祭られた
   という。この地名がしめすように、ここでは「馬」は「神」だったのである。「おしらさま」
   は、神々の体系の一端とされている。(『東日流[内・外]三郡誌』寛政原本、オン
   ブックス刊、269ページ、278ページ、「オシラ」参照)    《「馬神山発掘」必要》   

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(7)  新たな発展があった(2010、9月26日夜)。 ― 従来の「おしらさま」の典型的なスタイルは「馬が
 花むこ、人間が花よめ」の形だ。だが、これは本来「女性が主人公で、馬が従者。」の形ではなかったか。
 「女性が中心」は縄文時代の特徴である。『遠野物語』でも「おしらさま」は、“旅の途中の休
 息の場所に祭られている”とか、“狩りの神”であるとかの伝承が記せられている。この“縄文信仰
 の残映”であろう。やがて「男子中心の時代」となり、その結果、「馬が夫、人間が妻」という
 やや「グロテスクな形状」への「転化」が行われたのではあるまいか。『遠野物語』の伝える「オクナイ
 サマ」や「カクラサマ」は、その淵源か。 (8)  柳田にとっての「禁忌(タブー)」だった、記紀の歴史(皇国史観)を「脱皮」するとき、「真実の民俗
 学」と「真実の歴史」が広大に開かれよう。もちろん、日本で。そして世界でもまた。わたしはそれを疑わない。
                                            以上
             ― 2010、10月8日 記 ― 

 


 講演当日配布された添付資料 No.3・No.4 (No.はレジメからの連番) のイメージを画素数1807X2560で、公開します。

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添付資料 No.3
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添付資料 No.4