九州王朝新発見の現在 古田武彦

九州王朝新発見の現在 古田武彦

 2011年 7月 2日 久留米大学にて講演

 「邪馬壹(壱)国」と九州王朝をめぐる論証は、この一年間において大きな発展をとげた。その要点は、次のようである。

 第1 三国志の「東夷伝序文」は、本来「三国志全体の序文」であった。陳寿の庇護者、張華の失脚により、「正史」としての上表の機を失い、魏志巻三十に「二つの序文」という異例の構造≠ニして「挿入」された。
 第2 三国志の誇り≠ニするところは、「黒歯国・裸国」の記録にあった。史記・漢書(西域伝)が「安息国(ペルシャ)の長老」の報告によって「日の入るに近きところ」の存在を西の彼方(條支国から「水行百余日」)に記したのに陳寿が対抗≠オたものである。
 すなわち「東南、船行一年」の彼方に「倭人の国々」の存在することを、「侏儒国の長老」の報告によって記したのだ。この点をしめしたのが「東夷伝序文」の末尾である。「異面の人有り、日の出づる所に近し」がその眼目である。
 第3 従って一見倭人伝の「中心」かと見える「女王国」の存在は、実は途中経過地≠ナあり、その最終目的地の「侏儒国」(高知県足摺岬近辺)への「第二の里程記事」(「女王を去る四千里」)が、女王国への到着(帯方郡から一万二千余里)のあと、再び書かれているのである。
 しかし、近畿説・九州説を問わず、「侏儒国」到着の意義を論じた「考古学者」も「歴史学者」も、いない。重大欠落である。
 第4 従来の「邪馬台国」論者は、次の一点からも「目をそらし」つづけている。すなわち、自分の主張する女王国の中心が、弥生遺跡において「三種の神器」と「絹と錦」の出土分布の「中枢地」となっているか、否か、である。「大和(奈良県)」であれ、「朝倉や築後川流域や築後山門(福岡県)」であれ、その肝心の事実を欠いたまま、主張したのでは、「専門家としての失格」としか、言いようはない。一般の読者も、その一点を彼等に対して「問い」つづけるべきである。

 同じく、九州王朝の立場を無視≠オて、日本の古代史を説明≠オ得ると思う「考古学者」や「歴史学者」は、次の一事に対して明白に解明すべきである。
 第5 隋書タイ国伝所出の「日出ずる処の天子云々」の「名文句」をのべたのは、多利思北孤(タリシホコ)である。彼は男性であること、妻があり、キ弥(キミ)と呼ばれていることからも疑いえない。右の「名文句」は、国書の一節であるから、多利思北孤は「正規の自署名」である。それが古事記・日本書紀には一切出現しないこと、不可解である。
 「邪馬台国、近畿論者」であれ、「邪馬台国、東遷論者」であれ、「倭の五王」や「多利思北孤」を「非、九州王朝」論、すなわち「近畿天皇家一元主義」の「主義者(イデオロギスト)」である限り、この一点の「解説」なしには、「頭と心」ある子弟を、今後いつまでも納得≠ウせつづけることは、不可能である。
 第6 しかも、隋書は唐の魏徴による武徳5年(622)の上奏であり、この「正史」の著者も、読者も、ほとんどが「隋代(581〜618)」の「同時代人」である。タイ国に隋使がおもむいた時、同行した人々も、この初唐には少なくなかった。そのときの隋使が、当の多利思北孤と会って「会話」しているのであるから、その史料としての信憑性は極めて高いのである。
 第7 そこに記された風土が、例の「阿蘇山あり、その石、故無く、火起こりて天に接す。」の一文だ。他に、瀬戸内海の描写も、大和三山の活写も、ない。「古事記・日本書紀」は百年近くあとの8世紀の成立であるから、隋書の読者がこれを参照≠オ得る可能性は、全くない。
 第8 その上、いわゆる「神籠石山城群」は、山口県(豊浦宮)・福岡県(曰佐〈ヲサ〉福岡市。飛鳥〈アスカ〉小郡市。)を取り巻いて≠「る。決して「大和(奈良県)」や「難波(大阪府)」を取り巻いて≠ヘいないのである。
 この明晰な事実は、やがて全世界の日本史研究者の「周知」するところとなろう。有名な故事がある。「彼等(絶対権力者)は、男を女にすること以外は、何でもできる、と思っていた。」と。明治以降、現代に至る日本の考古学者や歴史学者は、男(多利思北孤)と女(推古天皇)を「同一人」として弁じつづけて≠ォたのである。
 公的な「立て前」として、百余年の権力は、その「愚」を犯しつづけてきた。しかし、今後もなお、日本国民に対して「目をつむらせ」つづけることは、すでに不可能となってきつつある。誰が子弟に「真実の歴史」を語りはじめるのであろうか。わたしは極めて楽観的である。
(日本評伝選『俾弥呼(ヒミカ)』ミネルヴァ書房、近刊、に関連テーマ詳載。)